石嶺町伝統エイサー会

首里にある石嶺町の伝統であるエイサーを継承するとともに地域の青少年の育成に力を入れているエイサー会です。最年少は2歳から最高63歳まで踊って唄ってます。

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エイサー紹介

 「京太郎と書いてチョンダラーと呼びます。顔の白塗り装飾は、次第に派手になってきたのです。もともとはマユやヒゲを描いただけ。たぶん侍に扮していたものが変化してきたのです。
 沖縄県内でも地域やグループによって、チョーギナー(=狂言ぁー)やナカワチ(=中分ち)、マルムン(=間る者)などとも呼称されています。1グループに1~4人ほど。顔を白く塗った道化役のことで、他の踊りではあまり見かけない役割です。彼らが、まずグループを紹介する口上を述べ滑稽踊りを披露した後に、エイサーの踊り衆を招き入れることもあれば、エイサーの休憩時間に滑稽踊りを披露して観客にアピールするのです。
 「チョンダラーには、大抵グループの中でも年長者やエイサーに長けた人が選ばれるんです。青年会のエイサーなどでは、OBがその役割を果たすことが多いですね」。チョンダラーは滑稽役だけではなくて、エイサー唄の途中や変わり目で、グループの列を整えたり、衣装を整えたり、メンバーの汗を拭いたり、水を配ったり、折れたバチを交換するといった仕事があります。加えて100人を超える、大きなエイサーグループ全体を統率する、リーダーの役割を担っているからなのです。

エイサー紹介

石嶺のエイサーはもともと首里地区にあったものです。まず沖縄のエイサーの起源は500年以上も前の古琉球時代にまで遡ること。旧暦の盆のニンブチャー・ウドイ(=念仏踊り)として定着していったのではないかということ。そして、そこには祖霊供養の気持ちが込められているのだということ、など。ニンブチャーというのは、念仏唄を唄いながら各戸を回り、修行していた念仏僧のことだそうで、いわゆる托鉢修行僧に近いのです。「首里で踊られていたエイサーの原型が、北へ200kmほど離れたチャタン(=北谷町)に伝わったのではないでしょうか。というのも古琉球の時代に、失脚した当時の武士や貴族がチャタンに左遷され、集まって首里村といった雰囲気のコロニーを作っていたようなのです。
 一方で、どのような理由からかは分かりませんが、首里の踊りはだんだんと廃れていったのです」。チャタンのエイサーは400年近い歴史があるといわれています。

エイサー紹介


  それにしても、ニンブチャー・ウドイが、なぜエイサーと呼ばれるようになったのでしょうか。エイサーを踊るとき、エイサーエイサーヒヤルガエイサーと囃子が入ります。そこから来ているという説がありますね。だとすると、囃子に欠かせない三線などの伴奏が加わったのが、250年くらい前といわれていますから、エイサーと名づけられたのも、その時期なんじゃないかと思われます。
 まずエイサーの衣装。そこに定型といったものはなく、各エイサー団体が自由に決めているようです。もともとは農民の普段着だった浴衣で踊られていてもちろん今も、浴衣を多くのエイサーで見ることができます。
 現在、男性は頭にサージと呼ばれる鉢巻をして、シャツにズボン、陣羽織を羽織り、キャハンを足首に巻き、地下足袋を履くのが一般化しています。一方、女性は今も浴衣が多いようです。中には、ニンブチャー・ウドイの名残を伝える僧服のエイサーもあるのだそうです。
 おおよそ旗頭、太鼓踊り、手踊り、チョンダラー、ジウテー(=地謡)といった構成です。旗頭とは、地域やグループの大きな旗を持って先頭を歩く役割。太鼓は大太鼓、締太鼓、パーランクー(半打鼓)の3種類があり、それぞれ演奏しながら踊ります。手踊りとは、何も持たない踊り手のこと。ジウテーは、三線による伴奏やエイサー唄を唄います。そしてチョンダラー…。

石嶺町の紹介

その1


首里三平等(しゅりみひら)の行政区域の区分は、一つは川で区分されています。
まず「西(にし)(北)之平等(のひら)」と南風(はえ)之平等」は真嘉比(まかび)川で区分されており、次に「南風之平等」と「真和志(まわし)之平等」は、龍潭(りゅうたん)から流れ出た疎水(そすい)と尾根で分けられているのがわかります。
この古地図では王府の役所、士族の屋敷、お寺が細かく描かれており、昔の首里の町並みのようすを知ることができます。首里のお年寄りに話を聞くと、戦前までの首里の町並みはこの古地図とあまり変わらなかったといいます。とすると、ほんの60数年前までは、首里はこの古地図のような町並みだったようです。

明治12年(1879)に琉球では「琉球処分」、という廃藩置県が行われました「三平等(みひら)」はその1年後の明治13年8月に廃止され、首里は新たに編成されなおされました。 明治39年に西原村の一部であった石嶺・平良が首里区(当時)に加わり、大正9年に同じく西原村末吉を加えています。これが、現在私たちが見る事のできる首里地区となっています。戦後になり昭和29年(1954)に首里市は那覇市と合併するのだが、合併時には「古都・首里の名が消えてしまってよいのか」という意見が少なからずあったため、これら住民の意を汲んで、旧首里市域では合併後も町名に「首里」を冠することになった為、現在の住所表示は「那覇市首里○○町」と首里がつくようになっています。